2013年2月17日日曜日

「ソードアート・オンライン」にリアリティは在るか

アニメの放送は終わってしまいましたが、いまだに高い支持を得ている「ソードアート・オンライン」(以下、SAO)。今回はその人気の構造についてのお話。年末のサークルでのフリートークイベントでも話したネタですし、ボク自身は原作を読んでないので、かなり一人相撲のような部分もあると思いますが、そこはスルーしてください。

まあ正直なところ、第一印象としてはかなりご都合主義的な部分が強い。しかしそこで、「そんな状況ありえへんわ」と一蹴することは容易なので、もうちょっと(我慢して)どこが面白いのか真剣に考えてみました。すると、あながち「ありえへん」こともない。つまり結構リアリティがある・・・という結論に。一体どういうことなのか。

キーワードになったのは「仮想的有能感」です。これは速水敏彦先生が、2006年に出された『他人を見下す若者たち』の中で提唱されたもの。今の若い人は自尊心なんかを守るために、根拠もなく相手を下に見て自分の優位性を確認する傾向があるということですね。そういった深層心理が、SAOではキャラクターの設定に投影されることで、忠実に描き込まれていると感じるんです。

次に物語の構造に注目。SAOではこれまでの作品よりも、一つ多い次元の超越があるように思われます。普通なら現実の視聴者と、アニメの仮想世界という2つですが、SAOでは後者の中でもさらに日常とサイバー空間の乖離があるんですね。つまり、視聴者・日常のキャラ・サイバー空間内のキャラ、という3つのレイヤーがある。じゃあ、この構造と仮想的有能感によって、どのようなリアリティが描かれているのかって話です。

考える起点は、やっぱりこの作品のご都合主義。サイバー空間での主人公、キリトの活躍はまさに仮想的有能感を絵に描いたようなもでしょう。彼は数多くのプレイヤーの中でも、抜きん出たレベルに達している上に、結婚や娘をもつ経験までしてしまう。しかし大事なのは、彼がそうなるために、何か具体的な努力をしたわけではないということでしょう。彼がベータテスターであっただけで、超常能力はあたかも天から降ってきたもののようです。これはまさに、努力をせずに結果を求め、他人に対する優位性を何とかして得ようとする仮想的有能感を、キリトが体現していると捉えることができます。

・・・で、このお話にむしろリアリティがあるとボクが考える理由。それは先の努力なきご都合主義がサイバー空間で展開されているからです。要するに、「まあ、こんなことは現実ではあり得ないけどね」という前置きを、作品の中で行っているということ。日常に戻ったキリトには、そんな超常的な能力はありませんという、仮想と現実の住み分けがちゃんとなされているんですね。そういう意味では、単純にシンプルなファンタジー(例えば「ワンピース」みたいな)を眺めているより、こちらの「ご都合主義だけど住み分けされてる物語」の方が、まだリアリティがあると思います。

そんな仮想的有能感に基づいた理想と、それが実現し得ない平常の世界が完結して、アニメというよりマクロな意味での仮想を形成している。そしてそれを視聴することで、私たちは仮想的有能感の投影とキャラへの同一化を図る構造があるんじゃないでしょうか。「アクセル・ワールド」でもそうでしたが、このような「仮想空間に理想投影をするキャラクターに理想を投影する私たち」という構造が、川原礫氏の作品には組み込まれているようです。それが若者たちの潜在的な仮想的有能感の琴線に触れたことが、氏の作品のヒットに繋がったのかもしれませんね。


0 件のコメント:

コメントを投稿